インスタントフィクション2

「狂信者」

彼は確かに新興宗教の建物の近くにたむろする健康的で笑顔あふれるその若い集団を見て、思ってはいけないと思いつつも恐ろしさを感じていた。

昼食の時間になると、彼はホットな話題としてそれについて話し始めた。

「あそこの若い集団怖かったよね。特に若いっていうのが怖かったわ」

彼はとっさに言葉を選ばないといけないと思ったが、久しぶりに人と話したという高揚感であろうか、話を面白くしたいというエゴであろうか、次にこんな言葉を使ってしまった。

「狂信者っていうかさ」

いった瞬間にまずいと思った。冗談めかして言ったけれど、そこには間違いなく彼のステレオタイプが反映されていたし、人を蔑み差別する意識が無意識の中に芽生えていたことを暴露してしまった。

「いや、ダメだな。いやダメだなどころじゃないな。絶対言っちゃいけないな」

彼は誤魔化したが、狂信者と言ってしまう心が自分の中にあるということに背筋が凍った。

 

 

一文目、健康的で笑顔溢れることというのはいいことであるのに、この人は恐ろしさを感じている。その理由は新興宗教に入っている人たちであると彼が決め付けているからだ。つまり、彼にとっては、新興宗教に入っているのに笑って健康的であるということが恐怖なのである。おそらくは、彼にとって新興宗教という場所は全く笑えないし、健康的でもないという意識があるのだろう。それなのに、笑っていてかつ、肌艶が良いということに対して彼は恐ろしさを感じている。しかし、彼はそれに対して、思ってはいけないと述べる。

宗教観というのは難しいものである。それは合理とは捉えられないような教えの数々がたくさんあり、そしてその教えのために今まで様々な人々が焼かれてきた。戦争が起きてきた。日本人の多くが宗教というものに拒否反応を起こしてしまう。それは宗教にはタブーがあると考えているからだ。それに触れてしまうとそれまで穏やかだった信者は烈火の如く怒りだし、あるいはリンチにされるということさえあるかもしれない。彼はそれを理解しがたいとしている人物の一人なのだろう。しかし、彼は一人の知識人として、宗教というもので差別した結果発生してしまった歴史の過ちを知っているし、宗教というものもが全て間違った教えを説いているわけでもないということを知っているし、自分が正しいと思っている科学というものでさえも宗教ではないかという批判を浴びていることも知っているのである。それゆえにこう言った新興宗教への嫌悪を自身にとがめているのだ。

そして次の場面で彼は、ホットな話題としてそれを提示する。つまりはいじろうとしたのだと思う。いじるということは変だと思っているのだ。

次の次の文で狂信者という言葉を彼らに投げかけているのであるがそれは、この時点では喩えにすらなっておらず、いじりでもない。貶し言葉になってしまっている。

そしてそれを、人と久しぶりにあったことを言い訳にしているのであるが、実際に彼は人と合わなくてもその集団を間違いなく恐ろしいと感じていただろうし、変だと思ったから話題に載せたのであって、人と久しぶりに話したとか、面白くしようとしたエゴなどというのは全くの言い訳に過ぎないのだ。

そして、それを言ってしまって、彼はまずいとおもう。それはなぜかというと、ステレオタイプが現れたことや、暴露したことである。つまりは、自分の中にそう言ったことが芽生えたということではなく、言ってしまったことを彼は悔いているのである。

そこで彼は訂正を実際に入れる。そうして、自分は正常な人間だということを言い訳し誤魔化すのであるが、それを一通り言ったその後になってようやく自分の中にそう言った意識があったことを恐れている。

最後の一文までは、彼が自分は常識人であるという風を装った差別を生んだ心を言い訳する文章になっている。

そして最後の文章で彼はそう言った自分の意識を恐ろしいと思ったわけであるが、別に恐ろしいと思うことは行為を反省しないということに注目すると、やはりこの文章は一貫して、自身への言い訳であるように思えるのである。

miu404第6話感想

miu404第6話はめちゃめちゃよくできていたと思ったので、少し言語化しておきたい。

まず、話は星野源が犯人なのかもしれないと言う疑いからスタートする。星野源が行っていないはずの屋上になんの酒が置いてあるのかと言うことを知っていたからだ。

村上虹郎の死因の設定の仕方が巧妙で、酒が飲めないのに飲んでいた。まるで屋上から転落したような現場があった。星野源が第一発見者。初動捜査は星野源の仲間がやっていた。結果事故死ということになった。

ここまで聞いていると、グルでやっていたのかなということが頭をちらつく。そして、初動捜査の橋本じゅん麻生久美子もなかなか喋ろうとしない。不信感が募っていく。

そこで橋本じゅんの独白。星野源が行っていない屋上の酒を知っているということが明らかになる。そこで、星野源への怪しさが募ると同時に遺書の存在が明らかになる。この前に、星野源の相棒への思いを語るシーンを入れているのもにくい。一つ間違えば、星野源への怪しさが完全になくなってしまうようなタイミングである。

 

この辺りから、星野源の回想シーンが入るようになる。回想シーンは意味深で、星野源村上虹郎を説得したり諭したり謝ったりするシーンである。きっとここに動機があるんだろうなと思わせるようになっている。村上虹郎側になんらかの原因があるように描かれている。一課の刑事も二人になんらかの諍いがあったことを示しているし、この回想シーンで星野源の嘘が明らかになる。彼は間違いなく屋上に行ったことがあるのである。ここまでみて視聴者の関心は村上虹郎は一体どんな悪事をしたのかということになる。星野源が殺してしまうくらいの悪事とはなんなのかである。

 

CM明けて、遺書は遺書ではなく刑事を辞める退職願であることが明らかになる。このミスリードも大きい。遺書とくれば、自殺かなと思ったり、こねくり回して殺人とかかなとか思うわけであるが、それが退職届になることで、一気に形勢は変わる。星野源が犯人なら、遺書をタイプライターで書いたりするのではないかと思うが、本人が手で書いた退職願であった。さらに遺書ではないので、事故死の線もそもままである。それまで積み上がってきた星野源への怪しさが薄れていく。それでは自殺か事故死か。

同時に村上虹郎の視点で事実が明かされていく。そこにもいろんなミスリードがあって、怪しい女性容疑者と、未熟な村上虹郎の間で色恋が発生していて、犯人が逃げることを手引きしていたのではないかとか。虹郎にタリウムの症状が出ているような描写がされ、虹郎の証拠が出たことで犯人が逮捕されるような描写がされるので、虹郎が犯人を捕まえる決定打をえたんじゃないかと思いきや、そもそも今まで犯人だと思っていた女の容疑者が犯人ではなかったりした。それまで虹郎が犯人を逃したと思っていたので、逮捕されていたということも新事実である。

 

そして、結局あっけなく村上虹郎が事故死だったと明かされる。miu404お得意の何も起きてなかったという結論である。星野源は相棒を殺したどころか、相手のことを思っていて事故死についてすごく悔やんでいるということになる。ここでそんなことが明かされてあと半分くらい時間あるのにすごいなと思うわけである。

しかし謎は残されていて、星野源はなぜ屋上に行っていないと嘘をついたのかである。ここでまた大きいミスリードが明かされる。それまで回想シーンだったと思っていたシーンでランプが点灯する、つまりはスイッチがonになる演出があるシーンは星野源がこうしていれば変わっていただろうかという妄想であったのである。

また村上虹郎は、自殺であったのか事故死だったのか本当の意味ではわからない。それに星野源は苛まれていた。そこからまだ展開があるのだ。なぜあんな低所から落ちてしまったのかということである。あることに気づいた綾野剛は、あの日の村上虹郎と全く同じように急いで階段を降り、階段から滑り落ちそうになる。あの日の村上虹郎をそのまま再現するような出来事ってなんなんだと引き付けておいて、CMである。

 

そうして、結局村上虹郎は正義感から転落事故を起こしてしまったということが明らかになる。星野源は、自分が原因でないことに少し救われる。そして綾野剛の生命線が長い宣言で心があたたかくなっておしまいと言う話である。

 

 

大きなミスリードとして、前半の星野源周囲への疑心暗鬼を誘うと言う展開、回想シーンが嘘だったと言う展開がある。

また、最後のネタバラシは綾野剛が再現してしまうと言う一般性を持っていると言うことがすごいのである。そんな当たり前みたいなことに気づいていないのかとなるからである。

大きなミスリードだけでなく小さなミスリードや、今後の展開のための伏線などもあるにもかかわらず、星野源の心情を共感することで強い感動を覚えると言う内容が詰まりすぎていると言えるくらい詰まっている話で、一体どうやったらこんだけ辻褄のあう作品が作れるのだろうと感動してしまう。冷静になればなるほど、どうやって作ってるのかわからない。

 

こう言った、作ってる側の視点というのは、エンタメを見るときに一つの面白さの尺度になるように思う。多くの視聴者はあくまでその作品がどれだけ先が気になるかとか、どんな結論かとか、どんな感情が想起され、どんな学びがあるのかとかをみたがるが、今回のような傑作には気づきづらいのではないかと思う。決してそう言う見方が悪いとか浅いと言っているわけではなくて、この6話も、あんまり面白くないなと思う人の気持ちもわかるのである。結論が事故死だからだ。ただ、ここまでの話の構成を見てみると本当にただ事ではない。間違いなく傑作であると思う。

面白いってなんなのかって本当にしばしば思う。この6話は面白いとは何かを考えるのに格好の教材かもしれない。

 

 

言葉の練習

言葉の練習として、最近又吉のyoutubeでやっているインスタントフィクションをやってみようと思う。

 

「夏」

夏になると、みんな決まってプールに行ったり、アイスを食べたり、麦わらの帽子をかぶったり、風鈴を鳴らしてみたり、窓を開けてみたり、セミの声を聞いてみたり、夜は鈴虫だからいいなって思ってみたり、土の匂いが湿気と一緒に立ち上るのを嗅いでみたり、神社がちょっといい感じに見えたり、黒いアスファルトの上を湯気が立っているのをみて頭がくらくらしたり、車が通るたびに暑いなって思ったり、歩行者用の信号でできたほんの小さな影に隠れたり、コンビニが開いて一瞬涼しくなったり、地元にもないのに田園風景を思い浮かべて懐かしくなったりする。

全部が全部結構不快なのに、夏だからっていう理由で許されているのは、土地の神様が暑さで土地から抜け出てくるからなのだ。人間の体を神様が通り抜けると、不思議とハイな気分にキマッテしまう。陽炎というのは出てきてる神様が見えている状態なのである。

 

一応、400字以内。

あんまり風景が思い起こされないので、次は、風景描写を頑張ってみたい。

 

 

 

アイドルオタクはきもいのか?

アイドルに最近少しハマっていて、そのハマり方が少しキモいとご好評いただいたので、少し考えることにした。

 

アイドルが好きなことがきもいのか?

一般のイメージから考えてみる。

女性を見て美がどうたらとかいうのは社会一般であまりキモいと言われないような気がする。

でもアイドル好きのおっさんはキモい。メイドカフェとか行くおっさんもキモい。

 

何が違うのか。

上の女性美を語るような人はきっとTwitterとかのプロフィールに自分が一眼レフを構えているところをモノクロにした写真を使っているに違いないし、普段はニット素材のタートルネックを着ているんじゃないだろうか。それに対して我らがアイドル好きのおっさんは、お花とかのスタンプで装飾したアイドルの画像をプロフィールにしているだろうし,太極図をモチーフにした白の半袖tシャツに皺皺の七部丈カーキズボンを履いていて靴は黒の運動靴、その中からかなり長めの黒靴下を引っ張って履いているんじゃないだろうか。

 

なんと言うか、上の人はお洒落な感じがするし、少なくともアイドル好きなおっさんより清潔感がある。そして多分、フェミニスト写真家は妻帯者だがアイドルおっさんは独身だ。

 

単純にそれだけなんじゃないか?いい歳こいて結婚もせずにアイドルに入れ込む割には清潔感がないその状態がキモいんじゃないのか?

 

では若い人がアイドル好きなのはどうか?

例えば、CDとかも買っているし写真集も買っているけど、それが他のものとうまく同居しているアイドルオタと、部屋全体が好きなアイドルのポスターで埋め尽くされたようなアイドルオタ、どっちがキモいかと言われたら、後者だろう。常に見ていたい、囲まれていたいと言うのはわからなくもないが、部屋全体となると話は別だ。なんだか異常な性癖のように感じてしまうのだ。

 

ではライブシーンではどうか。

ロックのライブとかで手をあげたり飛んだり、コールしたりと言うのは、キモいとまでは言われないかもしれない。でもアイドルのライブで超絶可愛い〇〇たん!とかコールを野太い声が言うのを聞いてキモいと感じる人はいるだろう。まず、超絶可愛いと言う言葉がおそらくキモいのだろう。そして、〇〇に「たん」をつけるのもキモい。

例えば、直接目を見て女性にたいして「たん」をつけないし、超絶可愛いと言わないのだ。イケメンが壁ドンをして「超絶可愛い」と言うなら、「本当に可愛い」と言ったほうがキュンとくる気がする。超絶という単語の持つ、オタク特有の周りのことなんてどうでもよくなっちゃってる感がよくないのだ。ある種の狂気を含んだ物言いである。

 

結局ファンというのは、その人に対して好意を持つことだと思う。特にアイドルは、モデルや歌手とは違って、いろんな方向からその人を眺めるので、なぜ好きなのか明確にいうことができないかもしれない。でも確実に言えるのはその人がテレビに映るだけで嬉しいし、ブログが更新されれば大喜びで、ライブなんて見た日には興奮でその感動を書き連ねたくなるということだ。つまり、その人を見ているだけで嬉しくなってしまう、活躍すれば尚更嬉しいというように相手に対して強い好意を持っているのだ。

 

このファンになるということ自体は問題はないと思っている。もし問題ならこの世の何か趣味がある人全員がキモがられないと、アイドルオタが報われない。ではなぜアイドルオタだけがキモいのか。

それは熱狂しているというところにある。今まで言った若者のオタやライブシーンのオタは正直いい歳こいた男がやることをしているとは思えない。そこにあるのは一種の狂気性である。握手会にアイドルの表題曲の衣装ににた服を着ていくのも、それが女の子ならいいが、世間から見れば普段おしゃれに気を使わないようなおっさんが変な格好をしているに過ぎないのだ。これは一つの狂気で少し怖い。ストーカーと同じような怖さがある。社会の常識というものをものともしないのだ。やはりそう言った行為は普通の人から見て痛い、ないし恥ずかしいものであるのだ。

 

アイドルが悪いのではない。ファンの振る舞いが悪いのだ。恥ずかしいことは普通に恥ずかしいのである。アイドルファンはそう言った部分のリミッターが飛んでしまっている人が単純に多いのかもしれない。

 

今までのアイドルオタのイメージによって我々アイドルファンは固定概念としてキモいと見られがちである。だからこそより一層TPOをわきまえた行動が求められるし、清潔感というのも大事になってくると思った。

 

一つアイドルファンを擁護しておくと、ライブのあの野太いコールは、実際にやってみると楽しい物なので許してあげて欲しい。これは野球の応援と同じような気がする。また変な格好をするのもアイドルを喜ばせたいからなのだ。これはラジオに面白いメールを書いて読まれて、笑ってもらえたら嬉しいというのとおんなじので許してあげて欲しい。

ただそれをおっさんがやるからダメだ。普段は大真面目そうな顔してるのに、ライブになると急に人が変わったように大声を出したりするからダメだ。ちょっと恥ずかしいことをしたいなら、普段を変えることだ。別にいいじゃないかというかもしれないが、別にいいじゃないかぐらいのことなんだから別にいいじゃないか。半袖Tシャツを開襟シャツにしてみるとか、皺皺七部カーキズボンをサイズのあった黒綿パンにしてみるとか、長い靴下を短くしてみるとか、そういうのでいいのだ。普段から少し笑顔を多くしてみるとかそういうのでいいのだ。あなたがアイドルに接するように普段の相手にも接してみればいいのだ。

 

(自分が言ったことだけど、アイドルに接するようにみんなが相手にも接するようになったら、面白いな…)

 

握手会がおしゃれさんばっかになることを願って、お洒落に関する本に乾杯。

 

 

「うなり」ってどうしてワンワンなるの

うなりとは

こういう記事を一回描いてみたかったので書きます。

普段生きていて、うなるといえば

 

  1. 波がうなる
  2. うなるような暑さ
  3. 振幅が周期的に変化する現象

 

のうち、どれを思いつきますか

 

やっぱり3ですよね!!!!!!!

 

ねっ!!!!!

 

そう、ワーンワーンってなるあれです

 

試しに隣の人と少し音程を外して

 

あーーーー!

 

と言ってみましょう

 

ワンワンなるはずです

 

これは、二つのなみの振動数が微妙にずれているために起こる現象で

 

調律師の人なんかは、うなりがなくなったら調律できたと判断したりするそうです

 

 

 

振動数のずれがなぜ振幅を周期的に変化させるか

 

 

 

それは、振動数のずれが微妙だからです

 

 

例えるならAくんとBくんです

 

AはBより少しだけ足が早いとします

 

さあ、グラウンドを一周するとどうなるか

 

まだ僅差ですね

 

しかし、これが何周にも積み重なると

 

そのうち、Aの方が半周先に行ったり、1周さがついたりします

 

AくんとBくんが人造人間なら、Bくんはまた同じ時間ののち周回遅れしてしまうでしょう

 

周期的にAくんとBくんの差は縮んだり伸びたりします

 

これとうなりは同じです

 

振動数の差が積み重なると、初めはいい感じに強め合っていた音も

 

だんだんずれて、さっきより強め合わなくなります

 

それがどんどん積み重なると、逆に弱めあってしまうこともあります

 

でも、一周まわってまた強め合ったりもするでしょう

 

周期的に強めあいと弱目あいが起こるのです

 

強めあい弱めあいというのは、振幅のことです

 

これは実感できます

 

風呂場に行って波を作りましょう

 

そこに波をぶち当てれば、波は高くなります

 

すなわち、波の振れ幅、振幅が強め合うのです

 

音の場合振幅は音の大きさです

 

だから、あのワンワンというのは、音が大きくなったり小さくなったりを繰り返しているにすぎないのです

 

結論

 

波が強め合ったり弱めあったりを周期的に繰り返すことで音の大きさがわんわん変化する

 

それがうなり

 

 

(じゃ一人でわんわんいえばセルフうなりできるじゃん!!わーい!)

 

 

 

 

 

 

 

 

ドラマ「ぼくは麻理のなか」が最高すぎた理由【ネタバレあり】

この度はぼくは麻理のなかをご覧いただきまして

誠にありがとうございます。

え?見てない?

わかりました。仕方ない。

オーダー入りました。前の記事一つ。

 

大将「へいお待ち

 

ashitawokangaeru.hatenablog.com

 

 

いつもより多めにしときましたんでね。へへ、いいってことよ」

 

ありがとう大将。

 

 

 

それでは、見た方も見てない方も

 

おはようございます!ネタバレ有りの時間です!

 

 

 

 

 

今日はよく晴れてほんと最高のネタバレ日和ですね、バレゾノさん

 

 

 

 

 

晴園「いや、本当に良かったと思います。選手たちにとっても非常にバラしやすいコンディションなんじゃないかと思いますね」

 

 

 

 

なるほど、ありがとうございました。

 

 

 

今回のテーマはぼく麻理です。

 

 

素晴らしく面白かったと思います。

 

 

後半に行くにしたがって、なんとなく多重人格説というのは選択肢の一つにはなっていったので、ラストで小森が偽物とわかっても驚いたという人は少なかったかもしれません。

 

しかし、それでも魅せてくれるところがこの作品にはあったとも皆さんおっしゃることでしょう。

 

それはなんだったのか、ストーリーを振り返りながら、核心へと入って行きたいと思います。

 

 

 

 

 

1章 麻理さんがいない、そして謎

まず驚いたのは、麻理さんがいないことです。そして、依さんはあからさまに変なやつであることが気になりつつ、麻理さんの謎が次々と現れます。

これは物語として非常にうまい展開だと思います。まず展開で僕らの心を鷲掴みにしました。

整理しておきたいのは、麻理さんはこの段階ではなぜか小森を見ていた皆の憧れの謎多き美少女だと錯覚させている点です。

麻理さんには彼氏もいないようですし、依さんやももかをのぞいてあまり話しかけられていません。前もって偽小森や依さんが麻理さんを天使とタグ付けしたことによって、全校生徒から憧れの目で見られているわけでもないのに麻理さんにある種そのようにも感じれる存在になっていたと言えます。これは我々の目を曇らし、麻理さんの心情について明らかになる次の章において驚きを与えてくれます。

また、この時点での偽小森の心情というのもポイントです。この時点で麻理さんが偽小森を生み出したと考える人は少ないでしょうし、視聴後もモヤモヤする部分ではあると思います。ただこの時点で偽小森を麻理さんと明確に分離した存在だと我々が捉えることで最後の偽小森消失や振り返って見たときに麻理さんの悲しさみたいなものを際立たせる効果が確実にありました。

 

2章 麻理さんの苦しみ

偽小森は麻理さんの苦しみが生み出した存在です。麻理さん自身もまたフミコの苦しみが生み出した存在でもあります。フミコは、オリジナルですが、偽物を作り出すほどの苦しみを負ってしまいます。また、偽小森は偽物こそつくりだしませんが、オリジナルではありません。その点麻理さんはオリジナルでない上に、偽物も作り出してしまいます。もっとも不幸な人格と言えるかもしれません。偽小森が麻理さんの苦しみに気づいて行く際、まず、偽物を作り出した麻理さんの苦しみに接します。そして、麻理さんと同じ苦しみを偽小森も味わうことになりますが、そこには依さんがいます。偽小森はそれを乗り越えることができたのです。そして偽小森はアイデンティティの揺らぎを感じながらも、麻理さんの非常に大きな苦しみたるアイデンティティの問題も掘り起こしてしまうのです。麻理さんはおそらく自分が偽物であることには無意識的に目をつぶってきたのだと思います。だから、偽小森が観覧車で麻理さんが偽物でフミコが本物であることを暴いた時麻理さんは怒っていました。自分が偽物であることに目をつぶってきたのにそれを暴かれてしまったからです。そして、偽小森を消してしまうのです。

 

3章 もぬけの殻

偽小森を消した後の麻理さんの体の演技は素晴らしく美しかった。もぬけの殻になってしまった麻理さんの体がなぜあそこまで美しかったのか。

 

4章 二人の偽物

結局この物語に出てくる人物は、どれも明確に区別されています。そうでなければ、麻理さんや偽小森は自身のアイデンティティで悩む必要がないからです。またそのうち、偽物は麻理さんと偽小森です。彼らのアイデンティティの問題は、今多くの我々がおかれている「私たちとは何者か」という問題よりどうしようもなく絶望的です。なぜなら、あなたは偽物なのだから。事態はクローン人間よりも複雑かもしれません。クローンは自身の体を拠り所にできますが、彼ら二人の偽物は存在してはいけないのです。彼らの体ではないのですから。

5章麻理さん

本編では、まず偽小森を消した麻理さんが自身のアイデンティティに向き合うことになります。麻理さんは自分が偽物だと知っています。しかし依さんを見て、自分よりより偽物のはずの偽小森に体を譲る選択をするのです。この時おそらく麻理さん自身も自分が何者なのか、麻理なのかフミコなのか、はたまた麻理という存在そのものは存在しないのだからこの私という意識はなんなのかということについて答えは出せていなかったでしょう。しかし、「依さんが好きなのは小森」という言葉にも現れているように自分より偽物の偽小森を一つの個人として認めるという判断が彼女自身を救うことになります。麻理さんは、繋がりが偽物であることを恐れていました。麻理さんは麻理さんを見て欲しかった。しかし見られているのは器の方。フミコも実はそうでした。フミコという中身ではなく母は麻理という外面を押し付けたのです。麻理さんはももかから可愛いという理由で仲良くなったり、母もまだ麻理さんという人格ではなく麻理という外面を愛していました。誰も麻理さんの気持ちを考えてくれません。誰も麻理さんを人格として認めてくれません。だから偽物である麻理さんはどこにも拠り所がありませんでした。極度の人間不信といってもいいと思います。だから誰とも繋がらなくていい小森が魅力的に映ったのでしょう。ところが偽小森は依さんと確かにつながった。それは相手を一人の人格として扱うということです。依さんは小森消えちゃダメと言います。まさに依さんは麻理さんの体でなく、偽小森を見ていた。麻理さんはそれならば小森の方がより本物らしいと感じたのかもしれません。

6章 小森

 

麻理さんに救われた偽小森が今度は自身のアイデンティティと向き合うことになります。彼は小森功なのですからそのアイデンティティは小森功であることにあります。しかし彼は小森功ではなかった。でもそこには明らかに、小森とも、麻理さんとも、フミコとも不連続な自身が存在します。偽小森はやはり僕は偽物なんだねと受け入れます。消えたくないという思いは、自身の出生の秘密、つまり麻理さんの苦しみを見て消え、麻理さんに体を譲ることを決断します。それは、依さんが偽小森も一つの人格だと教えてくれたからです。また、麻理さん自身が小森を人格と認めたからです。

 

小森は麻理さんにこう言います。

「君は君だ」

麻理さんは偽物ではない。麻理さんは麻理さんなのです。それに誰も気づいてくれない。ならば、僕がずっとそばにいる。たとえ依さんと離れ離れになってしまっても僕が麻理さんの中でずっと、麻理さんを一つの人格として認め続ける。麻理さんに溶けてしまうのではなく、麻理の体の一部として麻理さんを支え続ける。

 

あまりに長い間麻理さんでいたために麻理さんはもうフミコには戻れない。麻理さんが小森にしたように、フミコも麻理さんに体を譲ったのでした。

 

僕麻理の構造

僕麻理は、初め、視聴者を惹きつける仕組みを効果的に使い、麻理さんのアイデンティティの問題をえぐるその瞬間に同時に小森自身にも突きつけられるという形をとります。そして、麻理さんのために生まれ消えるだけという意味で小森は最も救われないキャラのように見えますが、麻理さんの知らなかった幸せを確かに知ります。そうしてその幸せで持って麻理さんを救うのです。つまり麻理さんに突きつけられた問題を小森自身の問題として乗り越えることで麻理さんの問題も解決していきます。小森もフミコも不幸ではありませんでした。小森もフミコも小森として、またフミコとして生きられたからです。麻理さんは最後に、卒業式の日の黒板に吉崎麻理と刻みます。麻理さんはこれからいよいよ麻理さんとして生きていくのです。

また全話見終えた時、不思議と別人格と最初は思っていたのに偽小森は麻理さんのような気がしてしまいます。確かに多くの場合、多重人格は主人格がその体に生きていてそこにひょこひょこと別人格が上乗せされていくイメージになりがちで、最後このお話でも、小森のオナニーシーンは、精神的に参ってしまった麻理さんの悲しい姿のシーンに見て取れます。でもこれは、初めに人格の区別を行うことで生まれた効果で、見事に視聴者の視点を転換することに成功していると言えます。

 

なぜ抜け殻が美しかったのか

僕はこのドラマ屈指の名シーンがあの抜け殻のシーンだと思います。

なぜ、美しかったのか。

ここまでお読みいただけば、麻理さんが器のみを見られていたことに苦しんでいたことに気がつくと思います。

その器の魅力が100パーセントででたのがあのシーンだったのだと思います。麻理さんも小森もその器に入ることで、人間味が出て、あの器の美しさほどの美を出しているようには思えませんでした。

しかしその抜け殻が泣いているように見えたのもまた確かです。抜け殻は誰とも繋がれません。圧倒的な孤独です。絶対的な美しさとともにそこに儚さを感じたのはこのためだとおもいます。

 

 

まとめ

 

ありがとう!僕麻理!俺は俺として生きていくよ!ってなると思います